申し訳ないが、自分は公務員に対する偏見を持っており、時折嫌いで仕方がないときがある
こう書くと多大な語弊があって、公務員だからこそ利益でなく世のため人のために尽くしたいと働く人たちの姿勢は、本当に大好きである。
利益追求でなく、世のため人のためとがんばっている人など、その仕事や生きざまには本当に共感する。
自分が嫌いなのはそういう方たちのことではなく、また状況次第でもあるが。
公務員と言えば、
[1] あまりにも理想的(机上計算的)過ぎて現実を見ていないか、実現性を考えられる感性がない、あるいは実現可能かを「現実的に」検証しない、
[2] 世の中を知らなさすぎる(社会あるいは世界の本当の姿を知らない)、
[3] 他人の立場に立って、物事を考えたり配慮することが出来ない(常に自分が”お上”と思っている?)
[4] 利益度外視の“度が過ぎる”、
といった方々がよく見受けられる。
最近だと、政治屋のそういう“体たらく”を目にすることが多くなったか。
[2],[3]だと、もう結構時間がたったが某元防衛相の宮城県知事に対するビジネスマナー(というよりもはや人としてのマナー)の欠如とか、比較的最近だと各閣僚の担当職務に対してさえ理解できていない(自身の担当分の勉強さえしていない?)というところだろうか。
[1],[2]が、あまり実現性を考えずに打ち出した民主党の公約といったところか。
※ もっとも増税に対して言えば、こうあるべきだとまともに仕事をすると、「とにかく自分の不利益は嫌だ」と反対しかしない他の政治的圧力のお蔭で、国債も年金も少なくとも自分が社会に出た20年前から赤字脱却を果たせたことがない。増税すれば解決するものでもないが、上記赤字を「自分は関係ない」という態度でとにかく損するものには反対という立ち場の人がいることも問題だろう。 そして[1]〜[4]全部に当てはまりそうなのが、郵政だったり電力会社だったりというところだろうか。
※ 法的にはこれらは会社であるが、実力や体制は「公社」の域を出ていないと判断する。
なぜこうなのか。
彼らは育ちがお坊ちゃんお嬢ちゃんだからかなんて思っていたが、つい先日思わぬところで合点がいってしまった。
実家の住宅団地の公民館では朝ゲートボールをやっている方々がいらっしゃる(まだ全員60くらいだそうだが)。参加しているのは、なんと全員が公務員の方だそうである。同じ団地の住民なので、全員が同じ職場で働いているということはなさそうである。
それを見たうちの実家の某氏は曰く、「まるで部活動だ。」
この一言が全てを物語っているようである。
すなわち、全員とは言わないが、公務員とは学校を一度も「卒業したことのない」方々の集まりではないのか。もちろんこれは比喩であり、独断と偏見である。
学校と言えば。
自分が経験してきた小中、高校、そして大学生活は、自分の感覚でいえばとにかく守られてきた環境だった。
※ 逆にある意味、特に中学までは個人裁量が無さすぎて、自分は本当に退屈だった。面白くなったのは高校からである。 世の中に出る最後の学校となる「大学」なってもそれは変わりなく。
目的を持って大学へ入ってきた人や、入学当初から将来のビジョンや大学でやりたいことが明確な人ならまだしも、それこそ“受験自身”が半ば入学の目的になってしまっていた自分などは、後x年たったら世の中に出ないといけないという事は分かってはいても、その実感や緊迫感は大学の4年になって就職活動を始めるまで無いままだった。
ただし大学に遊びに来た気はなかったので、学んだことを将来働くための自分の「武器」として活用するために、受けるべき講義や受けたい講義は極力きちんと出席だけはしていた。(ただし、出席率90%というところ。。)
自分の場合、後の就職活動という場で、ある意味痛い目に合うわけだが(いわば実社会の洗礼を初めて受けるわけだ)。
さて、話を戻して公務員になるにはどうすればよい?
基本は、大学に続いてまたしても対象の公務員試験という「受験」に受かればよいのである。受かったら、公務員になれる。もちろん、試験に受かればそれで職に就けるというのは相当強引な言い方であり、(「教職」免許を持っていたって、教師の職がなかったりするだろうし、)きっと「そんなもんじゃねぇよ」と言われると思う。
民間だって入社試験に受かればよいではないかと言われそうだ。
確かにそうだが、では民間の入社試験と公務員試験と同じだろうか?
本来は両方を経験しないと推定さえできないのだが、僕は全く違うと考えている。
大学時代までと比べると民間というのは、きれい事ももちろんあるが基本的には本音の世界であり、ハングリーであり、泥臭く、仕事の成果や納期や成績に対して多少の猶予はあっても基本はいつも待ったなしである。
そう言った世界に生きる(というこちらが本来普通の)人たちの中から人事担当となった方が、自分たち(の会社)が生きていく上でこの学生を入れることは有益か、金をこいつに払って見合うだけのものがあるかを吟味するわけだ。
それに比べて公務員試験はずいぶん緩くはないだろうか?
何度も言うが職種次第だが、勝手な想像でいえば殆ど受験に近いものも多々あるのではなかろうか。
仮にそうだとすると、入った後はどうなのだろうか?
・対象庁舎や機関は、先に書いた民間ほどいつも待ったなしの状況になっているだろうか?
・赤字であって、民間ならとうに「倒産」している機関があちこちに存続してないか?
・県庁や市庁等で働く方々が、地方税の収入が赤字であったとして、県や市の「倒産」を、どこまで真剣に考えているだろうか?
・そもそも彼らの多くが、そんな意識を持って業務をしているのだろうか?
つまり公務員の何割か(自分の感触だとかなりの割合)は、今も守られた学校と同じ環境にいるのである。
もちろん業務上世間と接触することは多々あるだろうが、少なくとも地位や経済環境としては「未だに世に出たことがない」のだ。そして「周り」には、自分と同じ同僚がいるという安心感も彼ら支えている。
そしてきっと、そんな生活を一生涯彼らは続けているのだ。
今、上述のゲートボールをしている方たちは高度成長期の世代であるから、今現在と状況は変わっているだろう。だが、その状況が根本的に変わったとは思い難い。
もし変わっているのであれば、もう数十年にわたり発行され続けている赤字国債が、震災の有無に関わらず毎年額を増やしながら発行され続けているわけがないのだ。企業だったら一年で倒産である。
毎年、収入と同額の社債を発行する会社に対し、よほど将来を見込めると判断されない限り、返ってこないかもしれない金を銀行が貸すはずがないだろう。
というわけで。
自分の中では、「公務員」≒「大多数が“学校生活”で一生を終える人たち」、と捉えている。そう考えると、冒頭の[1]〜[4]がきれいに説明がついてしまう気がするのだ。
そして、そういった片鱗を彼らから見せつけられると、ある意味腹が立ってしょうがない。
東電の値上げは、彼らのこれまでの不摂生(それこそ親に成績の良さを見せるような子供じみた所業の成れの果て)のせいによるところが大きいと思っているが、そんなことを言っても始まらず今現在の値上げも仕方なしという気持ちでいる(但し、以降はこんな「体たらく」にならないようにきちんと仕事をして頂きたいと思いながら。)。
にもかかわらず、「値上げは権利」などと平気で言ってしまうその姿勢が気に入らないことこの上ない。
※ 「踊る大捜査線」には、そういう風潮への批判の要素も当然含まれているからヒットしたのは、中高生でも知っているではないか。
ところで何度も書くが、公務員だってそういうことだけじゃないことは、承知しているつもりである。
学校で生徒に向き合うことに情熱をかけている先生、市民を守るためになった警察や消防の方、過疎の山奥でも下手したら命がけで配達業務を行う郵便の方などお見かけして、「仕事」をしている姿を頼もしいと感じている。
破天荒であれば良いというわけではないが、「青島」の姿に多くの方が共感したのではないだろうか。
日本の公務員は、「この姿勢こそがニッポンの公務員である」と皆に見せつけられるような、こちらが尊敬する方たちがいっぱいいるような、そんな集団になって欲しいと思う。